昭和43年5月18日 朝の御理解 (末永信太郎) №43-070
みんな、それぞれに夢を持たない者はありません。ね。皆がそれぞれに夢を持っております。まあ、言うなら願いを持っております。その願いが願い以上に、または、その夢が夢にも思わんというようなおかげになって来る、そのことを私は幸福と思います。幸せ、と。自分の思うようになることが幸せのように思うておるけれども、それは幸せのように見えて、幸せではありません。
自分の願いが、自分の持っておる夢が、ね、夢にも思わなかったようなおかげ、願いが、ね、願い以上のおかげに展開して来る。そういうおかげを頂かせてもろうて、初めて人間は幸福ということが言える、幸せということが言えるのです。信心しておかげを受けるということは、そういうおかげを受けることなのである。また、どうぞ、信心しておかげを受けてくれよと仰る、天地の親神様の氏子一人ひとりに願われる願いというのは、そういうおかげを受けてくれよと仰るのである。
ところが皆が、自分の思いが叶うと、願いが成就するということによって、幸せのように思う。それは、その思いの検討が違うのです。はたして、そういうおかげを頂いたから、幸せには、もう、絶対なれないことを、一つ知らなきゃいけません。ね。それは、苦しい時、悲しい時、そこをおかげを受けて行くということは、まあ、人間誰しも願わんことはありません。ね。けれども、その願うたことが、それが、なら、成就したから、それが、いわゆる神様の願いである願いが成就するということ、ではないということ。ね。
私はいつも、そういう実感を頂くのですけれども、御祈念をさせて頂きます時、何と申しましょうかね。本当にあの、この御祈念の時間がもっともっと長かったら良かろう、とこう思うです。まあ、言うなら心行くまで、この御祈念の時間を頂きたいと思うのです。仏教的に言うなら、と申しましょうか、二判の雲に二判の雲に包まれるというのは、こういう事ではなかろうかと思うことがあります。
シナの言葉に、桃源郷と申しますね。桃の源の郷と、(境?)ですね。桃源郷。それこそ、夢か現か、良い意味合いにおいてのですね。というような状態の中に、もう、身も心も溶けてしまうような感じですね。そして、私は思うのです。本当にあの、信心を頂いておる皆、いや、本当を言うたら信心のない皆が信心を頂いて、そして、こういう気持ち、こういう境地を開かせて頂くということ、信心がこのようにも素晴らしいものだということを、皆に体験してもろうたら、どんな有り難いことになって来るだろうかと、こう思います。本当に、そう思います。ね。
私は、その言葉の本当の真意というものは知りません。けれども、まあ、仏教で言う、その二判というね、二判の雲に包まれて。言うなら、あの五色の雲に包まれてというような、あの境地というのは、こういう境地を言うのであろう。ね。お釈迦様が亡くなられる時の状態をだいたい言うのでしょうね、二判というのは。ね。もうそれは、もう、本当にこれは、もう、信心を頂かなければ頂けることではない、私は境地だと、こう思うのです。ね。そういう気持ちに、こう、本当に浸らせて頂くという。そして、こういう気持ちをです、信心のある人には尚更のこと、信心のない人にでも、こういう有り難い気持ちが信心によって開けるのだと、頂けるのだということをです、教えてあげたい。私は、そう思うです。
皆さんは、そう思われませんですか。ね。信心の有り難い、信心の楽しさというのは、もう、ここにあると私は思います。今朝もそういうような状態の時に、神様から頂きますことですけれども。ね。皆に、このような味わいを味おうてもらいたい、こういう気持ちを開いてもらいたいと思うたら、神様からね、「ボーイフレンド、ガールフレンド」ということを頂きました。ね。
段々、人間が成長して参ります。ね。これは、その、自然に異性を求めるようになります。異なった、いわゆる、セックスですね。自分にはないもの、自分にはない性なんです。ね。そこに、女の友達が、男の友達が、ね、求めるようになり、出来るようにもなって来るのです。ね。そして、それが結婚というようなことにまで、まあ、進展して来る場合もあるのです。ね。
いわゆる、恋愛感情なんです。これは、もう、実にその、自然な働きなのです。今まで知らなかった楽しみというか、喜びというかね。異性との交際、交わい。ね。私がこのような有り難い気持ちにならせて頂けれるという、こういう気持ちを皆にも味おうてもらいたい。本当に、世の中の全ての人に、こういう味わいを味おうてもらいたいと思わせて頂いたら、そう頂きましてから私が感じるのです。
ははあ、皆がその、異なったもの、いわゆるその、ボーイフレンド、ガールフレンドが出来ない。出来ても、それを大事にしない。そこに、私はその、またと得られない味わいのものが開けて来ないのだということを思いました。ね。食物はみな人の命のために天地の神がつくり与えたまうのぞ、と。何を食うにも飲むにも有り難く頂く心を忘れなよ、とこう仰る、まあ、例えば食物訓というものをです、ね、人間の命のためにということを、人間の幸せのために、幸福のためにという風に、まあ、一つ頂いて御覧なさい。ね。
食物はみな人の命のためにというところを、ね。世の中の良しにつけ悪しにつけ、嬉しいこと苦しいこと、全てのことがと、ね、人間の真実幸福のためにと、その辺を頂いて御覧なさい。人間の、ね、すべての事柄。それは、まあ、嬉しいこと、苦しいこと、または悲しいこと。そのすべてが人間の命のために、いわば、人間の幸福のためにあるものぞ、と。何を食うにも飲むにもというところを、ね、どのような問題に遭遇し接しても、それを、ね、有り難く頂く心を忘れなよということに文字って考えてみて御覧なさい。ね。
必ずその食物が命のために、血に肉になって来るであろうように、必ず、その苦しいこと、または嬉しいこと、悲しいこと、全てのことがです、人間の命のためにであるように、人間の幸福のためになることを私は確信致します。ね。そこで、それを有り難く頂く心を忘れなよ。そこに、有り難く合掌して受けて行く心を忘れなよという風に頂いてご覧なさい。そして、そこに徹することだ。
例えて私どもが考えておる幸福とは、似ても似つかないもの、いわゆる、異質なもの。ね、異質というのは、異国の異ですね、異なった、と。ね。私どもが人間が考える幸福とは、似ても似つかないまま。ね。その似ては似つかないもの、異質なもの。その異質のものこそ、男にとっては女性であり、女性にとっては男性なのである。ね。いわゆる、ボーイフレンドであり、ガールフレンドである。ね。
そこを仲良うする信心でなからなきゃならん。ね、信心とは神とが、ね、神と仲良うする信心ぞ、とこう仰る。神様の働きそのものと仲良うして行くということ。その神様の働きの中には、私どもの浅い考えではです、幸福とは似ても似つかないようなもの。ね。はじめの間は、子供の時には甘いものが欲しいと言やあ甘いもの。ね、寝たいと言やあ、寝たい放題。ね。これもやはり、神の愛である、親の愛である。
けれども、だんだん年をとってくると、いつまで寝とるか、そん食べ嫌いしちゃいかん。苦いもんでも、辛いもんでも、ちゃっと食べ習わにゃんということになって来るようにです。ね。言うならば、幸福とは似ても似つかないものと感じられるような苦い事柄でも問題でも、それを頂き習わなければならないことを、親が子供に教えますように。ね。
人間の考えでは、似ても似つかない、幸福とはぜんぜん裏腹のような、その異質のもの。ね。それを、私どもが有り難く頂く心を忘れなよという生き方にならせてもらう。御理解第87節に、腹は借り物というが、借り物ではない、万代の宝じゃ。懐妊のときは、神の氏子がわが体内にいると思うて大切にせよ、と。ね。いよいよ、ね、素晴らしいものが産み成されて来る前、はあ、妊娠のおかげを頂いたと思うたら、ね、神の氏子が体内に宿ったと思うて、大切にせなければならないように。ね。
ボーイフレンドが出けた、ガールフレンドが出けた。仲良うするうちに、ね、言うなら結婚ということにまで話が進んだ。そこに、結婚へのいわば踏ん切りが出けて、まあ、結婚した。ね。言うなら、難儀なら難儀というものとの拝み合いが出けるように、もう、だんだん成長した。そこから、体内に宿るもの。ね。
だから、そこのとこを神様の氏子が体内に宿ったと思うて、自分の心の中に宿ったものをいよいよ大事にして行かなければならない。それが、十月十日のいわば日じつを要するのですけれども、そこには、言うなら玉のような子供の分別ということがある、言われるわけです、なるわけなんです。ね。
そこから本当の良いものが産み成されてくるのである。次の御理解88節に、昔から親が鏡を持たせて嫁入りをさせるのは、顔をきれいにするばかりではない。心に辛い悲しいと思うとき、鏡をたて、悪い顔を人に見せぬようにして、家をおさめよということである。ね。
いよいよ結婚、いよいよ嫁入りという時に親が鏡を持たせてやるというのは、形の上、形だけをつくしをするのじゃない。心に辛い、苦しい、または悲しいものを感じる時に、人に悪い顔ども見せてはならんぞという親心であるように、ね、私どもがそういう信心がだんだん進展して参りましてです、ね、難即おかげである。難儀そのものが神様の愛の現れである、神愛の現れであると分からせて頂くようになり、それを感じるようになる。それでも、やはり、辛い時には辛い、苦しい時には苦しいけれども、その、辛いを、苦しいを、悲しいを、ね、鏡を立てて、人、向こうへ持って行かずにです、ね、神様の方へ持ってくる。
いわゆる、心配する心で信心をする、神様へ向けて行く。ね。そこに、ね、不平不足のものを人に持って行くのではなくてです、難儀な顔を人に見せるのではなくてです、ね、神様の方へ向けて行く。ね。その辛い、苦しい、その悲しいと思うような事柄をです、いわば、異質のもの。ね。幸福とは似ても似つかないようなもののように思うけれども、ね、その食べ物こそ有り難く頂く心を持って頂いて行くならばです、良いものがそこから育って来る。良いものが、そこから産まれて来るおかげになって来るのです。ね。
そこから産み成されて来るところの、次々と産み成されて来るもの。それは、男やら女やら分からん。それこそ、夢にも思わなかったようなおかげ。ね。言うならば、願い以上の願いが、そこから成就されて来る。ね。そこのところを私どもがですね、大事にしないから、こういう気持ちが開けないのだということ。真に有り難いと思う心、すぐにみかげのはじめ。真に有り難いと思う心は、私はそういう心から産まれてくるもの。これは、私が日々ご神前で実感させて頂くこと。ね。
本当に、これがこの世の極楽であろうかというような心持ち。今朝などは、特にお湿りの音が、もう、本当にこう伴奏のように、、私の御祈念が弥が上にも、有り難い、有り難いものにして行って下さる。本当に、こういうような心持ちを、信心させて頂く者じゃない信心のない者にでも、皆に信心というものは、このようにも有り難いものだということを味おうてもらいたいなあ、と私は思うたら、ね、ボールフレンド、ガールフレンドと頂いた。女の友達、男の友達と、こう。
女は男、男は女を。ね。信心というのは、もう、そういうものを求めるところまで成長しておるのである。ね。そこんところをです、私どもが大事にして行く。そういうです、そこから、ね、異性との交際が、今まで味わうたことも体験したこともなかった、ね、信心のない間はぜんぜん分からなかった。信心を頂かなければ分からない味わい。ね。そこにはです、場合には、ね、火のように熱してくるもの。いわゆる、情熱である。また、場合には、氷のように冷たい冷静さ。これは、自己反省である。ね。
燃えただけではいかん。ね。それには半面、氷のような冷たさ、冷静さを持って、ね、自分自身の心にいよいよ取り組んで行かなければならない。異質の者を愛する上においては、情熱を持って。自分自身を眺める時には、氷のような冷たさを持って。ね。この二つの感情が、ね、まあ、適当にですね、バランスがとれた生き方、在り方の中にです、いよいよ間違いのない、言うなら結婚生活に入って、そして、次々と良いものを産みなして行くことが出けるように、良い結婚生活が出けるように、約束されるように。ね、良い、いわゆる信心、真実の信心生活が約束される。そこに、私どもの幸福がある。
実は、幸福とは煮ても似つかないものと感じられる、そのことこそが、ね、悲しいこと、苦しいこと、その時こそが、いよいよ鏡を前に立てなければならない時である。ね。そして、そこを悪い顔を人には見せないというように、ね、そここそ、神様におすがりをさせて頂いて。
ね、私は、自分自身、糖尿病ということにならせて頂いてから思うのです。はあ、食べすぎちゃいかん、飲みすぎちゃいかんと、それは、まあ、本当に、そげん言わんでんよかくさいとばっかりみんな思うごと、まあ、神様が言うて下さるように、人が注意をして下さる。で、その度に思うこと。本当に神様が、私の命を大事にして下さる。ね。私を大事にして下さる。もう、一時でも真実長生きのおかげを下さる、長生きさせて下さろうとする神様の働きが、ね、こういうような働きになって来るんだということを実感する。
神様が大事にして下さっておる。ね。食べたい時に食べられない。これは、幸福とは違ったもののようにあるけれども、真実は、本当の幸福を下さるために、食べちゃいかんぞ、飲んじゃいかんぞ、とこれでしょうが。それを、どういう訳に食べさせんか、飲ませんか、とこう言う。
そして、腹いっぱい食べるようなことをして、食べすぎるようなことをして、胃を悪くする、体を害する。ね。だから、幸福とは違ったもののようにある。はあ、食べちゃいかんばい、そげなもんどん飲んじゃいかんばい。けれど、そこにです、ね、そのこと事態を合掌して受けれれる、いわば、道というかね、信心の道とはそういう道を教えて下さる。神様が、神様なればこそ、私を大事にして下さる、その大事にして下さるその働きを働きとして、こちらに受け止めれる心。
だから、痛いことは痛い、苦しいことは苦しい。はあ、もう一杯と思うて、ひもじい事はひもじい。けれども、そのことが有り難い。ね、そのことが有り難い。そこに、そのことと仲良うして行くわけなんです。そこから、健康が約束されるように、ね、私どもは、幸福とは似ても似つかないようなもの、ね、事柄というものをです、いよいよ、大事にして行くことによってです、ね、それこそ、二判の雲に包まれるとは、このようなことでもあろうか。桃源郷というところは、どういうところか知らんけれども、桃源郷という、いわば境地があるならば、こういう気持ちを桃源郷と言うのじゃなかろうか。ね。
そういう心が真に有り難いという心。そこから生まれて来るところのおかげ。そこが、夢にも思わなかったようなおかげであり、ね、願いもつかなかった、思いもつかなかった。ね。願い以上の願いが、そこから展開されてくる。そういうおかげを、神様は、どうぞ信心しておかげを受けてくれよ、と言うておられるのではないかと私は思うです。ね。どうぞ、ボーイフレンドを作らにゃいけません、ガールフレンドを作らにゃいけません。そして、いよいよ、見極めが付いたなら、結婚というところにゴールインが出けるようなおかげを頂かなければなりません。結婚しただけでもいけません。そこから、良いものが宿りおる。宿ったら、いよいよ、それを大事にして行かなければいけません。神の氏子が体内に宿ったと思うてと言うように、それを大事にして行かなければ、いよいよ良いものが生まれて来るということの段階にはなって参りません。どうぞ。